たとえば明日とか

たとえば明日とか死ぬ

100回泣くことにある日常と非日常について

100回泣くことを事あるごとに読む

なんなら彼女と僕は100回泣いたかもしれないがわたしは中学生から現在まで通算200回くらいは読んだのではないかと思う(なんの張り合い)

たくさん好きな描写はあるのだけれどもその中のひとつで、バイクの修理中に結婚しようと伝えた僕に対し彼女は承諾したあと、普通断れないよねでも夜景の見えるレストランで凝った方法で渡されたら断れるかもと言う

最近まで意味がわからなかったけど、ああそうかと思うことがあった

 

夜景の見えるレストランは非日常的で、バイクの修理は日常で

そんな日々を重ねてきた「僕たち」はいまさら「僕」と「彼女」にはなり得ないのである

仮に「僕たち」が記念日や何かイベントのたびに夜景の見えるレストランで食事をし、お互いの家を行き来するようなデートではなく毎回外出をするような非日常を重ねてきたカップルであったなら「僕たち」は日常では「僕」と「彼女」であったと考えられる

非日常な僕たちはすぐにそれぞれ単体に別れられるのではないか

だから夜景の見えるレストランでプロポーズをされたら断れるのかとなんとも長ったらしい考察を経て納得したわけである

満足満足。

余談だがわたしは水族館で急にいなくなったと思ったらウェットスーツを着て水槽の中で結婚して!というプラカードを持って笑っているような意外性があるようで実はつまらない男と結婚したい

どうでもいいけど中村航を読んでいると哲学的なことを考えすぎて疲れる。