たとえば明日とか

たとえば明日とか死ぬ

いつか南の島へ

わたしにとって彼女は、(体感ではあるけれど)「母」よりも「なおこさん」だった時間の方が長い
一番近くにいる他人は物心ついた時から今までずっとなおこさんだった。

歳を重ねて彼氏ができたり大事な友達ができてもずっと彼女はわたしのまんなかに居座った
そしてなおこさんはなんにもわかってくれない一番大嫌いなひとだった
働いてなんてくれなくて良かったのに、ずっと家にいて帰って来た私の話を聞いて欲しかったのに
いつもせわしない人だった。ばたばたと家に帰ってきてはブツブツ言いながら料理をしてきいきい小言を言っていた
毎日毎日そんなに急いで生きて疲れないのだろうかと思っていたが、それが彼女なりのやり方なのだと知ったのはここ最近、なおこさんがもう一度「おかあさん」になった時なのであった

わたしたちはいろいろあったけど「おかあさん」と「娘」の戻った。


戻せない言葉も過ごせなかった時間もたくさんむかしにおいてきたけど、正しい形かもわからないけど、今度はちゃんと親子になったのだと思う
他人の距離にも親子の距離にもなれなかった19年間はなんだったのだろうとおもうけれど、わたしたちにはこれからきっとそれ以上の時間を親子として生きられる。
彼女の言葉を借りるならば、「これから人間は100歳まで余裕で生きる」のだ。
まだ折り返し地点にきたばかりの彼女と、折り返すまであと30年あるわたしはこれからまた親子を始めた
今度は離れすぎず近すぎず、きっといい関係になれる。
いつか彼女の好きな南の島へ行く

その時わたしたちはきっと昔みたいに笑うだろうと思う