たとえば明日とか

たとえば明日とか死ぬ

お前になにがわかる

お前になにがわかるんだよ

半年ぶりに母親に会いに行った

暴力と愛情の間で堂々巡りする自分がかわいそうで仕方なかったから行った

果たして暴力や暴言は愛情だったのか、ただの一度も八つ当たりやストレス発散だったことはないのか。

わたしのこと好きだった?

何度も何度も何度も聞こうとして聞けなかった

結論から言えば今日も聞けなかった

そしておそらくこの先聞こうと試みることさえないだろうと思う

何か食べに行きますかという質問に、はいと返信して近所の中華料理屋に行った

歩いている途中、看護学校に来年からきちんと戻ると思うというわたしの話を遮って彼女は、あんたのやっていること全部おかしいよね、おかしいと思うよね?と聞いた。さらに、私と同じだからあんたのことは何でもわかると続ける。

いつもの質問、いつもの台詞だった。そして20年間の刷り込みだ。わたしのやっていることはおかしい。全部おかしい。わたしの頭がおかしいからで、わたしが悪い。 

なにもおかしくない、生きるのに精一杯だったんだよと言った。わたしがその問いかけに反論したのは初めてだったことに気づいたのか、そうでないのかはわからないけれど、彼女は大きなため息を吐いてどんどん先に歩いて行ってしまった。それも、「いつもの」だった。ずっと小さい時から待ってくれない彼女を追いかけて追いかけて追いかけ続けて、もうついに追いかけることをやめていつもこうして後ろ姿ばかり眺めていた。相変わらず後ろ姿は疲れていて、わざとらしく頭を掻きむしったりする姿さえいつも通りで何だかもう本気で嫌になってしまった。

もういいですから帰りましょうという一言を飲み込んで入った油汚れだらけの中華料理屋で、わたしは小籠包と五目あんかけを、彼女はビールと胡瓜を頼んだ。

この人になにを聞いても無駄だと当たり障りない話をして30分くらいを過ごして、当然少しずつわたしの全部を否定する彼女の全てを諦めようと決め、やはり当たり障りない挨拶をして別れた。直後に入ったコンビニエンスストアのトイレで食べたものを全て戻した瞬間に涙も悔しさも悲しさも全部が溢れた

ただのろのろ歩くわたしとどんどん先へ行ってしまう彼女のちょうど間の速さで一緒に歩きたかっただけなのに、ただ今日あったことを聞いて欲しかっただけなのに、ただ好きだって言って欲しかっただけなのに、もう何も叶わない。悲しくてどうしようもなくてしゃがみこんだままくらくらする頭で今度こそは諦めようと何周も何周も考えた。

一生確かめられないであろう彼女の愛情の形も、暴力の意味も、もういい。何も聞かない何も求めない。ただこうやってたまに会って当たり障りないことを話すようにする。

それを当たり前にして、こんなに仲良く話しているのにわたしを愛していなかったはずなどないと言い聞かせる。曲がった感情を愛情として受け入れる努力と愛されていなかったことを認める努力、どちらも上手にできないわたしはこうやってちゅうぶらりんでやるのがいいだろう、きっと

ちゅうぶらりんなままでもわたしはわたしの愛情を見つけて絶対しあわせになる。諦めるのは母からの愛情だけでいい。誰かに与える愛情も他の誰かがくれる愛情も必ず手に入れる。

まあ正直そこまで前向きにはいけないんだけれども、もう手に入らないものにいつまでも縋るのはやめてちゃんとわたしはわたしで生きたいなと思う

だっていつか母のしあわせを心から願いたいよ