たとえば明日とか

たとえば明日とか死ぬ

泣いちゃいたい

泣いちゃいたい。

わたしはいま猛烈に泣いちゃいたい。なんでかわからない。猫がいつか死ぬということが、どうしようもなく嫌だし、来月20万円の税金を払わなくてはいけないのもたぶん嫌だと思う

でもそれらはわたしを泣かせたりしない。猫が死ぬかもしれないということは悲しいけれどまだ死んでいないわけだし、税金を20万円払うなど、毎日朝から晩まで働いているわたしにとって、もはやはした金のようなものだ。しかも猫はたぶんあと10年は生きるだろうし、税金なんて払えば終わる。

何がこんなにもわたしを泣かせたがっているのか。

悲しい本を読んだ。でも悲しい本は今まで何回も読んだ。悲しい歌もきいたけど、それも、今まで何度もきいた。なんで?どうして?悲しい。死にたい。死にたくない。死にたくない。

そうですこれが躁鬱ですね

なんということもない全部がわたしを殺しにくる。

朝起きなければいけない事、朝ごはんの後に飲むADHDの薬、女の笑い声、返品の対応、毎日毎日申し訳ございませんと赤べこのように頭を下げ続けること、2時間おきに飲む抗鬱剤、走らないと間に合わない電車、鳴り続けるレンジ、吐き出すことをわかっていて買うコンビニのご飯、掃除しても消えない入浴剤の緑色、ないと寝られない薬。全部、死にたい。泣けない。

かなり前から泣けない泣けないと言っているが、本当に泣けないのだ。

せいぜいおじいちゃんらしき人と買い物にくる女子高生を見て、いろんな意味の羨ましさでちょっと涙が滲みそうになったくらいだ。

泣いてしまえたら楽なのに。

猫も夫も税金も世間体も何もかも放り出して韓国にでも行って大好きな彫り師にタトゥーを彫って貰えばいいだろうか。マルニのバッグを買えばいいんだろうか。勉強なんてもうやだと言って学校をやめたらいいだろうか。いつ鬱は終わるんだろうか。

でもわたし猫も夫も税金も放り出したくない。タトゥーも今は入れたくない。痛いし。学校もやめたくない。勉強だって好きだし。マルニのバッグだって、自分で買うから今はいらない。

でも笑えない。

泣けないし、笑えないのだ。最近のわたしから発せられる言葉といえば、「ははははは」と「申し訳ございません」のみである。

はや夫と朝ごはんを食べながら猫を眺めるたった30分程度の時間が唯一感情の起伏がある時間と言っても過言ではない。それが終わればあとは死にたいと死にたくないを繰り返すばかりの思考である。

どうしたらいいのかもうわからない。

特にリストカットをしようとか死のうとかそういうことは思わない。そんな気力もない。そんな気力もない今がマシで、これ以下になると家から出られなくなるし、もう少し気力が戻ると1番死にやすい時期になるというのはよくわかっている。だから別にこれ以上にもこれ以下にもなりたいとは思っていない。今日もずっと泣きたいと思いながらぺこぺこぺこぺこ頭を下げ、端金を稼いでいる。たぶんいつか、今以上か以下がきて、わたしを殺してくれる。だからそれまでは猫と夫と暮らして、せいぜい生きるのだ。そう言い聞かせるだけでずっと生きていける気がするのだからちょろいものだ。ねむたい。あくびをしたら涙の出来損ないみたいなものが流れていった。よかった。