相変わらず暇なので自分のブログを読んでいた
思い出せない日常がたくさん残っていた
わたしの脳みそは記憶も処理も苦手だ。自分に関することは特に、3年前のことを3ヶ月前みたいに思っているし、1ヶ月前のことは4年前くらいになる。それから、8割がたのことは覚えてすらいない。
言われたら思い出す事もあるけど、それでも4割くらいしか思い出せない
だから過去を読んだところで、そんな事があったのか!という薄い感情が発生するだけで、他人に関する話を読んでいるみたいだった
さて、現在に戻ってみる
太ったら誰からもセックスという価値すら求められなくなると、過食嘔吐ばかりしていたが、今ではそんなにたくさん食べられたことすら嘘のように思う
病人のような言い方だが、まあある種病人なのかもしれない。薬の副作用でご飯がほとんど食べられなくなった。ほとんどというのは必要最低限を超える量は受け付けないという話だが、実際1年前より10kg以上も体重が減った。BMIをみると拒食症の域である。しかし痩せたからといって夫がセックスという価値でわたしをみることはほぼない。結局太っても痩せてもセックスの域でわたしはあまり必要とされなくなったということだ。それからわたし自身もセックスで自分を作ることをしなくなった。
文章はどうか。こちらも似たようなものだと思う。生活、勉強、向精神薬、発達障害の薬、睡眠導入剤、そういうもの全てがわたしから文章をなくした。わたしが、それらを得るために文章をなくしたとも言えるかもしれない
星の数、読者の数、何人がどの記事を読んだか、そういうのは全部、課題の評価がA+を保っていることや、バイト先で時給が上がることに変わった。
文章を書くことはやめられなかったけど、ブログはもうわたしの一部でなくなったみたいだと思う。セックスと同じだ。
記憶は戻らないと書いたが、唯一鮮明に思い出したことがある。死にたくなかったんだということだ。
今ではもう生きたくないと死にたくないを繰り返していたころを羨ましく思う
わたしはいつのまにか死を思うことをやめてしまった。もうオーバードーズもリストカットもしていない。
オーバードーズすれば腎臓に悪影響だと当たり前のように思う。リストカットも、傷口から感染したら嫌だし見た目も悪いからしない。
死について考える事もやめた。厳密に言うとやめたのではなく、できなくなった。
死にたいとも生きたいとも思わなくなった。どっちでもいい。炒飯かラーメンか決めろと言ってんじゃないんだから馬鹿かと自分でも思うが、本当にどっちでもいい
はー死にてーとは思うが、以前のように死なないと!とは思わないし、逆に、生きたい!とも思わない。これが正常でフラットな、いわゆる普通な状態なのかわたしにはもうよくわからない。以前と同じ熱量を生死にかけられなくなった。
これは一大事である。さよならアイデンティティーどころの騒ぎではない。(どうでもいいけどさよならアイデンティティーはyonigeというガールズバンドの曲名、好き)
アイデンティティの崩壊だ。わたしは自分を構成してきたセックス、文章、死、それを全部をなくしたのだ。
いまのわたしと交換したい?
以前のわたしに聞いてみたい
いまのわたしは、あの頃のわたしが望んだわたしなのか。死にたくなかったわたしは、本当にいきている今をのぞんでいたのか。
もちろん答えてはくれないから今日もどっちでもいいなと思いながら生きている
それから、当然、生き続ければ思い出せない記憶も感情も増えていく
これから先のどっちでもいいは思い出せないそれらにせめてもの償いをするために生きるのかもしれない