たとえば明日とか

たとえば明日とか死ぬ

遠いわかれみちに立つ

わたしはこの世界で生きている。遠いわかれみちに立っているわたしを思って、これからもいきていく。

大きな分岐点で分けるとすると、だいたい、わたしの人生は4つくらいになる

1つ目は高校を辞めなかった世界、たぶんこの世界でわたしは普通に高校を卒業して(卒業式では誰よりも泣く)京都造形芸術大学同志社立命館か、まあその辺りのとりあえず京都の大学に行き、上終町というバス停の近くに住んでいただろう。今頃は新卒1年目でなんにしてもヒイヒイ言っているに違いない。

2つ目は婚約破棄をしなかった世界で、これはまあ、普通になんとなくパートとかをして宇都宮で「田舎じゃん」とか言いながらもそこそこ楽しく暮らしている。たぶん退屈すぎてたまに嫌になる。

3つ目は婚約破棄をして、世界で一番好きだった人と暮らしている世界だ。世界で一番好きだった人は日常になって、もしかするとただ数学の蘊蓄を垂れ流すつまらない人になっているかもしれない。

4つ目は結婚をしなかった世界で、わたしはいまもビッチと呼ばれ、専門学校は結局やめていると思う。ヤリマンのまま勉強など1ミリもしないのに慶應に籍だけ置き続け、一時的な安心感を得つつただヤケクソのセックスをしているだろう。

共通していることと言えば、どの世界のわたしもたぶん、全部になりたいと思って生きているということだ。自由でいたいとか、勉強がしたいとか、一人で生きていく力が欲しいとか、誰かに愛されたいとか、まあそんな不満を持って生きているだろう。

どの世界のわたしもこのわたしにはなれないのだ。毎月毎月胃が痛くなるような試験ばかりで、課題の山に埋もれて睡眠剤を飲み、向精神薬を飲み、エンゲル係数を少しだけ下げるために薄い牛乳を選ぶ。

羨ましい?たぶん羨ましいだろう。こちらのわたしがそう思うように、向こうのわたしもそうだと思う。

たとえ、エンゲル係数など気にしなくても良く、濃い牛乳を飲んでいたとしても、彼女たちは勉強ができない。夫にも会えない。誰かと真剣に向き合い、お金の価値を知ることもない。

ずっと年上なのにちゃんと対等に仲良くしてくれる学校の同級生にも巡り会うことはないし、食道って扁平上皮癌になりやすいんだよねとか言っても、なんのことやら、という顔をするだろう。

でもそれでいい。わたしは、この世界で、向こうのわたしができないことをして、いつか死んだら彼女たちに会って言うのだ。わたしは楽しかった、そっちはどうだった?お互いに羨ましいと言いながら、やっぱりここが一番だったなと思うだろう。そう思う。そうするためにわたしたちは生き延びているのだから

違う日常が今日も流れ続けている。

仕事に慣れてきて、はじめてのお盆休みを楽しみに生きているわたしが、お昼ご飯をつくっている薬指にちょっと変わった結婚指輪をつけたわたしが、婚約破棄のかさぶたからずっと血を滲ませたまま世界で一番好きだった人にコーヒーを入れているわたしが、コロナに負けないとかわけのわからない理屈でセックスの予定をせっせと組み込むわたしが、そこにいる。

がんばれ、と思う。頑張る。こっちは頑張ってるよ、つらいよ、今でもあの時を思い出すけど、頑張ってるよ、たまに思う。

それから、あの、いくつもの分岐点に立っている弱々しいたったひとりきりのわたしに、これからを生きているわたしに、大丈夫だ、と言う。

どれを選んでも大丈夫だから、絶対楽しくやるから、言い聞かせるみたいに、言う。