別れるかもしれないと薄く思う。
薄く薄く積み重なって思う。
わたしは夫に多くを求めすぎたし、夫は多くが嫌いだった。
価値観の違い、と一言で片付けてしまうには簡単すぎる。
ただ、わたしはもう夫に興味を持てないのだということが事実としてくっきりとわかる
それから愛していないとか嫌いになったというわけではない。それも事実である。
しかし興味が持てないという自分に失望し、それからここにきてまだ「自分」に失望しているということに、絶望したのだ。
さらに、今日の日記によると、今まで''we''と表記していたものが無意識のうちに''わたし''と''夫''に変わっていたことが全てを表しているらしい。
(自分で書いた日記を今日の今日で思い返してらしいというのもおかしな話だが)
日記には、もうこの関係性をweに戻すことはできないのではないかとめちゃくちゃな英語で書いてある。
確かに愛していたはずの人を手放しても、というべきか、別れてしまってもというか、まあどちらにしろ構わないというのは不思議な感情である。
愛着は可逆性のものだったのだ。新たな発見である。
しかし愛着が可逆性とはいえ、愛が可逆性かというとそうでもないと感じる。
愛はたぶん不可逆性だ。そもそもたった2年間で何をぬかしているのだという話はさておき、どの愛ももとには戻らない。
ちなみにここでいう可逆性というのは、1ヶ月で約60冊の本を読むこの賢くて可愛いわたしの解釈によると、あるものが徐々に変わっていき、なにかのきっかけや時間の変化によって元の状態に戻るという事だ。
その解釈に基づいて話を進めるならば、愛は確実に不可逆性である。愛は発生した段階からずっと進行していくのだ。元の状態に戻るどころか1秒前の愛にすら戻ることはできまい。
そして、進行のどこかの段階で歪んだり、形が崩れたりして、人はそれを憎しみや嫌悪に変えるのかもしれないが、愛は形を変えても本質は変わらず愛のままでいるのではないか
つまり不可逆的で不滅のものだと言っても過言ではないと思う。
そうすると、わたしはまだ夫に愛を持っているということになる。
さて、甘ったるい愛について長々とつまらないことを書いてしまったが、結婚に話を戻そう
大前提としてわたしは簡単に結婚したのだから、簡単に離婚することもできるとは思う
しかし、結婚の動機が愛なのであれば離婚することはできない。だって愛はそこにいるのだ。
多くを求めすぎただけで離婚するなんて、「まっとうに」愛を持っていたころのわたしに顔向けできないではないか。せめて自分の中の愛の概念を変更してからでないと、あの時のわたしはぶさいくに顔を歪めて怒るだろう。納得できない、死んで、と言うだろう。
わたしは愛の概念を今のところ変えるつもりはない。そうだ、だから別れない。
別れるかもしれないと薄く思っていた。さっきまで。
いまの苗字の方が好きだし、別れたとしてもわたしに残るのは猫だけで、余計に死の自由がなくなってしまう。離婚しない。