たとえば明日とか

たとえば明日とか死ぬ

愛は消えたねチャッカマン

20歳のとき結婚した。22歳のとき離婚した。

もう3年が経つので思い出してみようと思った

というのも、自分が以前に書いたブログを読んでいて「え、こんなことあったっけ」とか「こんなこと考えたんだっけ」とか思うことが多いからである。これは昔からだ。わたしはコロコロ考え改めマンなのですぐそういう羽目におちいる。

5年から3年前の記憶と、少々残っているブログの記事のみで書くので前と違うじゃん!みたいなことがあるかもしれないがまあ仕方ない

思い出したいかと言われたらもうとっても!!という感じではないが、以前ほどは思い出すのも辛くなくなってきたように思う

20歳の馬鹿だったわたしは22歳の馬鹿だった松田(以前ブログで元夫のことを松田と書いていたのでそのようにする)と結婚した。わたしはその年に死ぬ予定だったので、看護学校を休学していたが、ハプニングバーで働きなぜか学校に通うよりメンタルを病んでいた。今思えばただ嫌いな先輩がいただけである。そんなバイトは辞めてしまえ

そして阿佐ヶ谷というなんだか新婚には素晴らしくふさわしいのではないかという土地で結婚生活がはじまった。ちなみにわたしが阿佐ヶ谷でルームシェアをはじめて1ヶ月で当時の友人と揉めたあげくその後釜に松田を招き入れたというマジでごみみたいなエピソードもあるが詳細は割愛する

阿佐ヶ谷での暮らしは基本的に楽しかった。喧嘩もほとんどしなかったし、お互いに夜中働いて朝に待ち合わせて帰って、ご飯を作っては食べるような生活をしばらくしていた。猫もいて、誰かに愛されていて、しあわせだった。そんな生活がしばらく続いたあと、わたしは看護学校に戻った。戻ってしばらくしてもハプニングバーショットバーで働いていたような気がする。そのあとは平和に岩盤浴の深夜清掃をしていた。思えばこの時期がいちばん幸せだったかもしれない。わたしには将来やりたいことがなんとなく見えてきたし、看護師なら人1人くらい養えるという愚かな過信もあり(それが過信だということは看護師になった今十分に理解できた)、何もかもうまくいくと思っていた。

おそらく2年生になったころ、同じ飲食店でずっと働いていた松田が横浜の店舗にうつるかもしれないという話が浮上した。これはなかなか理解が難しい話なのだが、わたしはその当時松田の会社の社長と松田なしで今後のことを決めるという暴挙に出ていた。どう考えても社長はおかしいのだが、わたしも気が狂っていたとしか思えない。そしてなぜかは忘れてしまったのだが、おそらく首都圏で住んだことがない県が神奈川くらいだったからとかそういうくだらない理由で、わたしはその横浜計画を推し進め、2ヶ月後くらいには松田や猫もろとも横浜駅からバスで25分ほどの狭いアパートに引っ越していた。ちなみに阿佐ヶ谷の家は庭付きメゾネット2LDKくらいだったと思う。横浜は完全にワンルームだった。思い返せばその衝動的な行動やほとんど勝手に決めた狭い部屋などその全部が離婚の原因になったのだろう

結局、横浜での生活はほとんどコロナウイルスに支配されていたように思う。外出自粛の中、必要に駆られて行った業務用スーパーが唯一の思い出である。馬鹿みたいにたくさんの胡麻団子を買ったことを妙によく覚えている。それからはもう坂道を転がり落ちるように夫婦の形が崩れていった。お金のことや松田の仕事のことなど、全てを思い通りにしたいわたしと基本的に何も現状を変えたくはない松田の間でどんどん溝が深まり、話し合いもしなくなった。なんとなく仲がいい日みたいなことはあったけど、基本的にずっとどちらかが大きな不満を持っている状態だったと思う。だから夜は仕事が終わった松田の自転車が帰ってくる音で電気を消して寝たふりをするようになっていった。もう全然幸せではなかった。でも時間が経てばなんとかなるかもしれない、特にわたしが看護師になれば今よりずっと生活水準は上がって、お金のことで喧嘩しなくなって、うまくいくかもしれないというようなことを考えた記憶がある。セックスも全然しなくなって、松田がよくわからないレンタルルームみたいなところを借りていた。わたしは浮気する勇気も余裕もなかった。

たぶんもう別れると思うというようなことをわたしも松田も親しい友人に送っていたこともたぶんお互いに知っている。明確になぜ別れたのかと言われると全然覚えていまてーんという感じなのだが、たぶんお互いに全く同じことを考えていることがわかったから別れたのだと思う

わたしたちしあわせになるために別れましょうと一行だけの手紙と離婚届を書いて、図々しくも松田が帰ってくる部屋で寝た。次の日には出て行こうと思っていた。朝早く起きると松田はソファで寝ていて、いつもの癖みたいに携帯を見てしまった。これこそわたしが最も思い出したくない部分なのだが、同僚の人や彼の兄弟に「離婚届書いてメンヘラ女が眠剤飲んで寝てる。怖い。笑」みたいなメッセージを送っていた。あーわたしってやっぱりこう思われていたんだなという気持ちと、まあそう思うよなという気持ちが半分くらいでどちらも諦めだった

そのあとなんやかんやあり、離婚調停をしますか?という話し合いをすることになった。なぜかは忘れたが、早朝の横浜駅地下で待ち合わせをした。ほとんど何もやっていないシャッターばかりの中で、彼の隣でも後ろでもないところをわたしは歩いた。やっと見つけた喫茶店でオレンジジュースを飲んだ。たばこを吸おうと思って目の前の人を見たら、安い紙たばこにチャッカマンで火をつけていた。面白いからチャッカマンを使っているという感じではなく、本当にたばこを吸いたいが火をつけるものはチャッカマンしかないというときの羞恥心とどうにでもなれという気持ちとひとかけらのプライドが混ざったような複雑な顔をしていた。元々たばこを吸っていたわけでもなかったのに、まなに合わせると言って吸い始めたたばこを取り憑かれたように求めている様はまるで亡霊のようだったが、2年間の中で最も綺麗な顔だった気がする。

まあしかしそんな朝方のカフェで何が決まるわけでもなく、わたしチャッカマンで火をつけるような人と結婚していたくないという思いだけが強く残ったという話なのだが、結局わたしたちはきちんと申し立てをして、お互いに絶対顔を合わせることはないように伝え、調停をして離婚した。だから、その時のチャッカマンの顔がわたしの見た最後の松田である

今になって思うことはいくつもあるが、あまりにも愚かな決断だったにしろ結婚してくれてありがとう20歳のまなちゃん、そして松田というのがいちばんおおきい。

全然この話の本筋とは無縁の母との関係性を再構築させてくれたのは直接的でないにせよ松田であるし、これは本当にわたしと母の努力あってこそのものではあるが、松田がいなかったら到底今のようにはなれていないと思われるので、感謝してもしきれないのである

そして、もう一つはいかに若気の至りであったとしても、わたしのことを結婚したいほど好きでいてくれた人がいる、わたしは結婚したいほど人を好きになれた、ということが今のわたしに少しだけ自信をくれることがある。

だからまあ結論から言えば、結婚してよかった。今まで松田とではなくてもよかったと言ってきたが、松田と結婚してよかった。離婚してよかった。松田のおかげでわたしははじめて人を愛するということを知ったのだと思う

特に綺麗な話にするつもりはない。わたしは松田の、松田はわたしの嫌なところをもう嫌だというほどに見ただろうし、言いたくないことも言ってはいけないことも何もかも浴びせあいあった。だからわたしが結婚生活を思い出す時、はじめに思い浮かぶのはおぞましいという単語なのだ。おぞましかったけどたのしくて幸せだった結婚生活を振り返ってみたが、これは果たしてどのくらい脚色されていない真実なのか現在も眠剤でへろへろのわたしにはちょっと判断ができない。これから松田に死んで欲しいとか生きて欲しいとかそんなことは微塵も考えていないが、もしいつかテレビでお笑い芸人として働く松田を見られることがあったならそのときはきっと泣いてしまうだろうと思う

その涙はたぶん、松田が結婚した日に流したものと同じだ、と思う。

おわり