たとえば明日とか

たとえば明日とか死ぬ

お願い来世ひかりを希望を

死のうと思っていると人から打ち明けられていろんなことを思い出したので書く

なおもちろん死のうと思っている人に自分の話をするほど自我の強い人間ではないので安心していただきたい

わたしがはじめて明確に死のうと思ったのはたぶん小学3年生の時だ。私が帰るまでに家を出て行ってねと母に言われ、行くところもないし死のうと思って青梅をかじった。結論から言えばもちろん一粒の青梅に小学3年生を殺せるほどの青酸カリは含まれておらず死ななかったのだが、今思えばあれが人生最初の自殺未遂だった。

そのあとも21歳の少し前まで何度か本気で首を吊ったりした。21歳になるとき死のうと思っていたし、運が悪ければ本当に死んでいたと思う

それらを今思い返してみて、本当に死ななくてよかったと心の底から思うかと言われれば全くもってそんなことはないし、たとえば「生きててよかった」とスーパーで突然泣いた日もあったが、生きててよかったと思えたほどのしあわせも2年で失われた。ただ小さい、ご飯がおいしいとか、大事な友達の誕生日を祝えるとかそういうことでまあ生きていてもよかったなと思うことはあるが、ではいまからお前が寝ているうちに殺すよ〜ん!と言われて嫌だなとは思わない。根本的にわたしは根性なしのわがままブスなので痛いのも苦しいのも怖いのも嫌だからたった今死んでいないわけなのだが、痛くも苦しくも怖くもなく殺してくれる人がいるというならぜひお願いしたいくらいだと思っている

だからまあ死のうと思っていると言われてもそれはそうだよなとしかこたえられないのだ

わかる〜と言っては自分の話になってしまうし、それはそうだよなと言っても2人でしゅんとなるだけなのでいったん回答は保留にしておいたのだが、いずれにしても生きていくのは難しいよなと思う

それぞれにつらいことや悲しいことが日々少しずつ蓄積していって、そういうなかで生きられるだけの希望みたいなものをいつまで見つけられるだろうと思ったりした。ミスチルみたいな言い回しになったが、でも本当にそういうことだと思う

つらいことや悲しいことがない人なんて存在するわけもなく、明日を生きるための力がなくなることだってある。そういう中で死ぬほうを選ぶ人を批判する権利は誰にもないと思う。明日を生きられなくなる可能性は等しくはないけど誰にでもあるのだから、そういう道を選んだ人を少なくとも優しく送り出すほかないのではないか、と思ってしまう

生まれ変わったらみんなそういうことを思わなくていい世界にいけばいい。すごく深い海の底とか、誰にも会わないアマゾンの奥地とか、高い雲の上で雪が雨になるところとか、そういうところにいけばいい。

だって誰も死にたくならない世界なんてない。ただ少しの希望とか光みたいなものがあると信じて明日を生きてみたりするほか、死ぬことを選ばない我々にできることはないのだ。とりあえず死にたい人が今日はできる限りゆっくり寝られたらいいと思う。

おわり。