たとえば明日とか

たとえば明日とか死ぬ

その庭の金魚バスタブのプロポーズ

なくしてから気づくことが多くて悲しいと思っていた。なくさないと気づかないわたしは馬鹿でまぬけでクソだと思っていた。たぶん違った。別にわたしは馬鹿でまぬけでクソだが、なくさないと気づかないわけではなかった

昨日本当にそれ以来はじめて、新婚生活を送った土地にいた。松田に対する気持ちを整理したいと思ったからいた。わたしは一体、松田に何を思っているのか自分でもわからなかった。久しぶりに会って好きかもしれないと思ったことは確かなのだが、恋愛として好きと呼ぶには微かな違和感がずっとまとわりついているような、よくわからない感情を持て余していた。結論から述べると男性だからというわけではなく人間として好きであるし、今はじめて友達なりたいと思っているのかもしれないと思う

さて、新婚生活を過ごした街は変わっていないように見えて実際細部のお店や街並みは少しずつ変わっていて、本当に人と同じだよなと思った。変わっていないように見えるけど細部は違うことになったりする。結婚した時から5年も経った。結婚しようと言ったバスタブには汚れたホースとか発泡スチロールが詰め込まれていて、ドアには家の取り壊しが2週間前から始まっていると張り紙がしてあった

罠だろ、と思った。以前書いたようにわたしは松田の上司と彼の転勤を勝手に推し進めたのだが、仮にそうしなかったとしてもその4年か5年後には家の取り壊しが決まって、住み慣れた家を出ていくことになっていた。どこかで自分の思い通りにしたいわたしのひどい傲慢さがきっとそこで発揮されてどちらにしても離婚することになっただろうなと確信した。実際にはそうならなかったかもしれないが、どの側面から考えても離婚くらいするまでわたしは自分の傲慢さに気づくことができなかっただろうからたぶんこれは正しい。どうしてなくなるまで気づかないことがこんなにもあるのか、わたしは愚かで悲しかった。しかしよくよく考えたすえ、これはなくなるまで気づかないことではなく、なくさないと得られなかったものなのかもしれないと思った

なくなるまで気づかないことは、本当はなくしてはいけなかったものだけど、今回の一連のことは、たぶん人生のどこかで一度なくす必要があったことなのだと思う。5年前に松田のことを好きになって結婚して嫌いになって恨んで憎んで離婚して、5年後の今再会して、ペペロンチーノ作ってもらったこと、松田の味方でいたいと思ったこと、わたしの味方でいてほしいと思ったこと、今、近すぎて遠すぎる感情を持て余したこと、結局友達になりたいと思ったこと、そういう全ての中で相手を失ったり相手の中で失われたりして松田もわたしもいたことは必要だったし、そういう風な相手として少なくともわたしは絶対に松田を必要としていた

そしてまだ何もわからないことだけど、これから先も友達であったり、恋愛は関係しなくとも友達からそれ以上やそれ未満のなにかとして松田が必要なのだろうと予感する。

というか松田は再会したときそういうふうなことを言っていたのにどうして自分が納得いくまで受け入れることができなかったのだろうと思うし、やはりわたしは馬鹿で間抜けでクソなのだった

まあこの話は全部きれいにまとめすぎかもしれないし、正当化かもしれないけど今はそう思う。

もうすぐなくなる赤茶色の二階建ての家で夏にすくった金魚と猫と好きな人と暮らした。泣いたり笑ったりした。その時は楽しかった。その家の庭には金魚が1匹埋まっている。バスタブでプロポーズして結婚した。

もうその家をそのままの形で見ることはない。懐かしくなったとて他人がそこでする生活をなぞって思うこともできない。それを選んだのは他でもないわたし自身で、だからそれを選んでよかったと思うように今やこれからを生きていくしかないのだ、ともう一度強く思う。これからのことも、これまでのことも修飾できるように、今日を生きる。少なくとも今日を、可能であれば明日を。死ぬなよ、まなちゃん

またね