たとえば明日とか

たとえば明日とか死ぬ

遺書のねむる海

遺書捨てた

15年ほどいつ死んでもいいと思って書いてきたのだが、ついに捨てる時が来たと思った

わたしは死なないと決めたわけではなく、死ぬわけにはいかないとわかったのだった

夫を残しては死ねぬとわかった。まなちゃんがいなくなったら僕には生きていく意味はないと言い切った人をおいて死ぬことを決めるわけにはいかない。そしてその生きていく意味がないという言葉は決して恋愛などの甘さを含んだものではなく、本当の切実さで出来上がっていることをわたしは辛いくらい知っている。だから夫が生きている限り死ぬことはない。

1月1日になった街を歩いて海に遺書を捨てた。びりびりちぎって捨てた。死なないまなちゃんなどつまらないと、死にたくないまなちゃんに用はないと言う人もいるかもしれない。あるいはもう味方じゃなくなったみたいに思う人もいるかもしれない。でもわたしはそういう人たちを切り捨ててでも生きていたい人と会った。しかし見方を変えれば、人のために死ぬのをやめるなど愚かで単純でいかにもまなちゃんらしいのでどうか読者の皆様は落胆しないでほしいと思う部分もあるのだが、こればかりは人の感情なので見切りをつけても仕方ない

ただわたしはいつだって生きていくほうを選んできただけで、また、これからも生きていく方を選ぶだけなのだ。

フィギュアを集めるようになった。これまでの生活においてどうせ死んだ後に親や友人が困るのだからと思って生活に必要ないものを買おうと思っていなかった。だからはじめて夫にフィギュアをねだったとき、わたしはもう誰かを残して少なくとも意図的に死ぬことはないのだとわかって嬉しくて泣きそうだった。死なない方を選んでいたら本当に死なない人になった。

わたしはこれからくだらない。心配しなくていいという夫に甘えて仕事もろくにせずに家で洗濯物を干してフィギュアをながめたり、猫を撫でたり、夫の選んでくれた丈の短いワンピースを着て犬を飼ったり人並みに子供を欲しがったりするだろう。死にたいと泣く夜も、首を吊って迎える朝ももう来ない。

生きて迎えるはずなんてなかった2024年を生きて、自分の足で歩いている。食べるはずなかったお寿司を食べて、いられないと覚悟した猫たちと過ごしている。

もう遺書書かない。死ぬときはずっとずっと先でご褒美みたいに待っている。死んだ後1/3のわたしは夫と一緒にいようと思う。そこが地獄でも天国でもそうじゃない場所でも、来世まではいようと思う。これはきっと愛だ。まだ夫には教えてあげないけど。これからを生きていく。楽しく。長く。遺書は海の底でずっと先を待ってねむる。おやすみさよなら。

またね