たとえば明日とか

たとえば明日とか死ぬ

おじのチョコパイ

一族全員に嫌われたおじがもうすぐ亡くなろうとしている

別れるかわりにおじの人生について少しだけ書いてみようと思う

おじはわたしの父の弟である。互いに東北で生まれ育ち、お見合いで結婚した祖父母の間に父が生まれ、その2年後におじが誕生した。54年前のことだ。

古い考えをもつ祖父母から長男なのだからと愛情も関心も一身に受けて育った父と比べ、おじは興味を持たれずに生きてきた。父が小学生4年生、おじが2年生のころ、祖父は千葉へ転勤した

都会でも明らかに勉強のできる父は変わらず自慢の長男だった。一方おじはあまり成績の振るわない劣等生だったようだ

運動は得意であったが、大学を中退してしまった祖父からみれば勉強ができることが全てだったのだと思う。祖父には祖父の価値観があり仕方のないことであるが、その価値観はのちにおじの心を徹底的に殺してしまう

その後、父は県内でトップクラスの進学校に入学し、国立大学へ進学した。祖父母の望み通りであった。おじは底辺と呼ばれる高校を卒業したあとしばらくフリーターのようなことをして暮らした。

父は大学を卒業したあと留学をし、帰国後に就職したエンターテイメント系の会社で副社長まで成り上がった。同じころ、おじはできちゃった結婚をした。わたしの従兄弟となる息子が生まれた。

父はそのあと外資系の企業に転職し、人を蹴落として役職を手にした。そのあとすぐに母と結婚した。おじは相変わらず仕事を転々とし実家で暮らしていたが、第二子である娘が誕生した。さらにその2年後、わたしが生まれた。まだそのころ一族から嫌われていなかったのだということは、下手くそな笑顔でわたしを抱くおじの写真をみればわかる。

さらに数年経ってわたしには弟ができて、おじは離婚した。いわゆる嫁姑問題が原因だったとあとから聞いた。奥さんは親権を放棄し、家を出た

とはいえおじに2人の子供を育てることはできず、実家と子供から逃げたり戻ったりするおじの代わりに祖父母が面倒を見た

わたしの弟が小学校に上がる頃、父は起業し事業は面白いようにうまくいった。あとを追うように、おじも起業したが何度も何度もうまくいかなかった。そのころからおじと父、それから祖父母との仲は徐々に悪くなっていった。父からは「あいつは負けたやつだ」と聞かされていた。

それからしばらくして、おじはほとんど引きこもりとなった。父は相変わらず景気よく暮らしていた。

中学生になった従姉妹はもう家に戻らなかった

ただおじには唯一運動神経をいかした野球部のコーチという役割があった。フリーターだろうがひきこもりだろうが、変わらずに野球部のコーチだった。たまに祖父母の家に遊びに行く時、おじがコーチをしているのをみにいくのが少しだけ好きだった。親失格だとか、ダメ人間だとか言われているおじが、少年たちから慕われ、のびのびとしているのをみると子供ながらに安心した。

さらに数年が経って、従兄弟は大学に進学することになった。どこの誰が行くんだよというような私立大学だったが、当たり前のように父が全額学費も下宿代も出した。もうあいつは父親ではない、とはっきり言い切った従兄弟の顔がやけに鮮明に思い出せる。

高校生になったわたしはしばらく一族と疎遠になったが、その間におじは本格的に鬱を発症し、父からビール瓶で殴られ、兄弟揃って警察のお世話になり、家からも出て行き、音信不通となっていたらしい。

転機は祖父の状態悪化だった。面倒を見るつもりがない父の代わりにわたしの母が全ての面倒をみた。おじは久しぶりに帰ってきて「ちゃんとする」と言った。(ちなみにわたしもそのころ帰り「ちゃんとする」と言った。その1週間後にはブロンをODしていた)

もうその状態のおじが「ちゃんと」できるはずがないのは誰の目にも明らかなことだった。

そうして父はどんどん実家から離れるように、わたしたち家族の家にも帰らなくなり、祖父を介護するには多すぎたり少なすぎたりするお金だけが振り込まれ続けた。必要のないベンツが急に納車されたりした。

おじは1週間に一度くらい、申し訳程度に顔を出して少しだけ祖父の面倒を見た。結局、どちらも実家から離れてほとんど全てを放棄したことには変わりないのにお金を出した父だけが優秀だった。

それから10年近い闘病のすえ祖父が亡くなったとき、ついに張り詰めていた糸が切れるようにして認知症を発症した祖母の面倒をみることを条件におじはふたたび一族から許された

こうして書いているとお金は出しているんだからいいんだろと亡くなるまでほとんど祖父にも会おうとしなかった父と、週一回顔を見せる程度ではあったものの、泣きすぎて骨を拾うことができなかったおじ、どちらにもどちらを許す権利などないと思うのだが、根本的に異常なのだ。

毎日毎日お金を取られると電話をしてくる祖母の面倒を見きれるはずがなかった。どんなに好きでも、むしろ好きだからこそ、認知症の介護はできないだろうとわたしは思う。

おじは、また逃げてしまった。ここ数年は自殺未遂を繰り返していたらしい。ただ良いこともあった。孫が3人もできた。中学生のときに出て行った従姉妹は、まだおじを父と思っていたのだ。ラインのアイコンは3人が笑った顔で溢れている。おじは決して悪い人間ではなかったと、それだけが救いだろうと、そう思う。

生活保護を受ける申請をして、そのあとすぐに心臓の病気で倒れて、あっけなく意識を失って、もう戻らないらしい。どこからどう見てもいつ亡くなってもおかしくない状態にある。

明日、祖母が面会にいくのだという。明後日には忘れるかもしれないおじの面会に、祖母は行くのだ。最後の面会になるだろうと思う。ゆっくりと準備させてくれるみたいに、おじは静かに亡くなっていく。こんな書き方をすると陳腐な終わりになってしまうが、優しい人だった。

最後に会ったのは2年前の1月2日で、その日おじはわたしが来ていると電話したらもう全然好きじゃないチョコパイをたくさん買ってきてくれた。甘すぎたけど嬉しかった。優しい人だった。

だから誰からも愛されずに死ぬなどと思わないでいてほしいと思う。明日祖母との面会をお願いしたのは父だ。もう家族でないわたしの母も、心配している。わたしだって、こんな方法でしかできないけど、心配している。ただもうゆっくりと死んでいきたいという望みを叶えるために1人で悩んだのはまだ30歳にもなっていない従姉妹だ。

これは、間違った家族の間違った最後かもしれない。あるいは表面的にみればただの父を自慢したいだけの話にみえるかもしれない。でも違う。これはおじがおじなりの方法で愛された話である。

ただがんばれといまは思う。でも死んでしまいたいなら無理はしないでいいとも思う。おじが望むようにいってしまえばそれでいい。

もうすぐ遠いところへいくおじを思う。そのときはチョコパイをもって、あのころのおじと同じように下手くそな笑顔で送り出せたらいい