たとえば明日とか

たとえば明日とか死ぬ

飴色玉ねぎの憂鬱

今年2度目、人生3回目のコロナにかかった

免疫系大丈夫?死んだ??????

とりあえず患者さんや周りの人にうつしていなかったことが唯一の救いである。

ところで、彼氏が浮気をしていた。コロナになるわ浮気はされるは踏んだり蹴ったりである。

しかも行き2時間半で開始30分のドライブ中、車の中で携帯をかわりに操作していたところ知ってしまうという最悪な感じだった。

まあここに詳細を書いたところで誰の得にもならないので(わたしの不幸を望んでいる人間を除き)書きはしないが、結論からいえばまあ許してもいいかなあという感じだった

友人たちからはなぜそんな人間と付き合い続けるのか何がいいのかと非常に不評だが、元セフレ同士であるし、ある程度お互い性にだらしないことは仕方のないことだと諦めている。

しかしまあ何よりもベッドの上で紙たばこを吸ってベランダにそのまま捨てるというような暴挙をはたらいていた5年前のわたしを知っていて、なおかつ今のわたしを好きだと言ってくれる稀少な人間を逃すわけにはいかないというのが本当のところである。ついでにナポリタンを作るのがうまい。

彼は会社員なので仕事終わりに向こうの家でわたしがご飯を作るか、土日のどちらかに無理くりデートをしてわたしの家でUberをするかというパターンになっているが、わたしはこの、付き合っている人の家で料理をするという行為が非常に好きだ。最も好きな部分は、玉ねぎを炒めるという所だ。ざくざくみじん切りにして油をひいてヘラみたいなやつでじわじわ炒める。シャキシャキしていた玉ねぎがゆっくり柔らかくなって、透明になってから飴色になって、塊みたいになる。この瞬間を至福と呼ぶのだと19歳くらいからずっと思っている。

この間も玉ねぎを炒めているときに至福を感じていた。浮気されていたのに、と思うと少しずつ憂鬱が混じっていく気がして無心で炒めた。

ただ人に愛されるということを無限のように思っていた19歳の頃のわたしはもういなくて、愛は無限ではなく代償を伴ったり、等価以上の交換だったりすることを知ってしまった24歳のわたしが今ここにいる。憂鬱を連れて愛はわたしを包んでいる。

今とあの頃、どちらがしあわせかとたまに自問自答してみる。全然わからない。ゴミのような生活をしていたほうがわたしに似合っていてしあわせだったような気もする。今のわたしはゴミを隠すために毎日普通の皮を被って生きる嘘くさい人間である。

それでもどちらが好きかと問われれば、少しの憂鬱と共に飴色になっていく玉ねぎをしあわせだと、至福だと思い続けられている今の方が、好きだといえる。愛は無限ではないと知っている今の方が少しだけ人生を大事にできているかもしれないと思う。憂鬱を伴わない人生とか恋とか愛だって今のわたしならできるだろうけど、たぶんつまらない。玉ねぎみたいに最初は辛くて、ゆっくり甘くなればいい。例えがめちゃくちゃキモい。わたしの中の秋元康が勝手に文字を打っていた。は〜〜〜〜なこちゃんかわいい〜〜〜〜〜